江戸時代「最後まで使いきる」という考え方は庶民の間では当然のように浸透していました。
中古の反物で着物を作り、着れなくなれば子供用に作り直し、さらにボロになれば赤ちゃんのオシメに、雑巾に、そして灰になって畑に撒かれる…衣類だけでもこんなに生まれ変わるとは。
ここまでくると感動してちょっと泣けてきます。使い捨てが普通の現代人としてはこれだけで称賛したくなるのですが、ただ単に『生産能力が低い国だった』という意見もあります。全てが手作りで大量生産できず、あらゆる必需品が高額だったのでしょう。

江戸時代に「もったいない」は無かった?

そんな高額なモノは庶民には手が出ない為、壊れても作り直したり手を加えたりする「手間」を惜しまない。当時はエコロジーの観点など無く、かといって仕方なくという訳でもなくただそれが日常だっただけ。

これは私の勝手な想像ですが…多分、買う側だって何かを生み出す仕事、それにつながる仕事をしていたでしょう。大工さんやお百姓さん、修理専門の職人さん、みんな誰かがあらゆる分野の職人さんで、そうじゃない人達も職人さんの手仕事などを間近で見ていましたから、作り手の労力や技術習得までの努力が分かっていたと思います。
丁寧な仕事の苦労を理解できる。だから大事に大切に使う。あらゆるモノを有り難いと、ごく自然に敬意の念をもって生活していたのではないでしょうか。

『勿体無い』という言葉も「勿体」が「無い」です。勿体は「世のあらゆるもの全て互いに繋がり縁(えにし)を成している様」で、「無い」が入るとその繋がりを潰してしまうというもの。
もちろん「高額だから」という理由はとても大きいと思います。しかしお金も含めて「もったいない」という気持ちはモノ作りの職人に向けて、資源をいただく自然に対してキチンと有ったように思います。

循環型経済と大量生産型経済

モノを大切にする、使い切る、という考え方は循環型経済ならではの考え方なのでしょう。大量生産型経済ではどうしても生産者の顔が見えてこない。安かろう悪かろうが当たり前で、壊れても修理費より新製品を買ったほうが安い。こうなったらもう大切に手間とお金をかけて修理して…とは残念ながらなりづらい。低コストに低価格。資源を大量に使い、大量生産で経済をグルグル回せばどんどん豊かな生活に。

しかし、天然資源には限りがあります。新興国の目覚ましい発展も加わり資源は渇枯しつづけ同時に価格も上がる一方。とんでもない大発明が出現しない限り、世界中が資源の取り合いになるのは時間の問題。

日常で可能なリサイクルを

じゃあ明日からみんなで循環型にしましょう…なんて訳にはいきません。現在をそうたやすく変える事は難しい。どうしたって時間はかかります。

現在、日本では循環型に移行できるよう循環型社会形成推進基本法という法律があり
  • リデュース(必要以上な生産、消費を抑制)
  • リユース(おさがり、バザー、中古販売などの再使用)
  • リサイクル(形を変え、新しい製品の原料になる)
の順に優先順位を定めています(2016年現在)

その他にも
ゴミになる物を受け取らない送らない
再生品を積極的に購入し使用する(少し高くなるかもしれませんが)
ゴミは地域の決まりに沿った方法で分別する
購入に値するかどうか一度考え直す
衣類を作り直したり、裁断してウエスにする
シェアやレンタルを検討する

などなど、私達が普通にできることが沢山ありました。循環型は「自然の理」として、とても美しい生活の形だと思います。全部は無理でも日常の中で出来る場合は行動したいものです。

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